B-2

B-2ステルス戦略爆撃は充分な防空が行なわれている空域に易々と進入して敵防衛力を抹殺し、指揮・管制モードを寸断するという戦略的な任務を担っています。これを同レベルの能力を持つ爆撃機を製造・運用できる国は現在他に存在せず、世界で唯一の超大国であるアメリカの象徴的存在となっています。B-2は実用化された従来の航空機とは相容れない形と黒い機体は世界中に強いインパクトを与え、「ステルス」という単語も相まり「反重力エンジンを搭載している、UFOの技術で開発された」等荒唐無稽な噂が一人歩きしました。しかし実際には全翼機開発失敗の歴史とジャック・ノースロップという一人の男の夢が結びつけた航空機であったのです。
■ジャック・ノースロップと試作ジェット全翼機「YB-49」


■ジャック・ノースロップの夢見た航空機
全翼機はドイツのホルテン兄弟が開発していたホルテン Ho229が有名ですが、ノースロップ社の創業者であるジャック・ノースロップも1930年代から全翼機の開発研究を行なっていました。全翼機は理論上機体サイズに比べ容積率が高く機体全体を小型しつつ搭載量を得られ、かつステルス性も向上する。この利点に着目したジャック・ノースロップは熱心に研究に取り組み2度目に設立したノースロップ社自体この全翼機を開発するために設立する程でした。第二次世界大戦末期、大西洋を往復飛行が可能な重爆撃機計画「10×10ボマー」が発足。設立間もないノースロップ社にとっては千載一遇のチャンスであり軍に熱心に全翼機の利点を売り込みことでB-35として200機の生産契約を成功させます。



しかし、大型全翼爆撃機の製作は史上初めてであり開発は難航しました。全翼機は飛行には不安定な形状で現代のフライ・バイ・ワイヤ技術がなくては操縦するのが極めて困難であり技術的にも解決は長期化することが分かりました。おりしもこの時代ジェット機が急速に進歩しておりレシプロ機であるB-35への軍の関心は薄れていき、発注契約は1944年5月にキャンセルされてしまいます。それでもなお全翼機という概念自体には注目していた空軍は、試作機による試験は続けることとし、うち2機に対してはジェットエンジンが搭載されYB-49として開発が続行します。しかし無理にジェット化したため解決しなければならない問題が多く、1948年6月5日にはパイロットのグレン・エドワーズ大尉ら乗員5名全員が死亡する重大事故も発生。1950年3月15日には全翼機開発中止命令が正式に出され「10×10ボマー」計画は、より一般的な形態のコンベア社のB-36が採用されます。YB-35を含む11機の試作機は全てスクラップ処分にされ、ジャック・ノースロップの夢見た全翼機はついに地上から姿を消してしまうことになり、開発に全てを賭けていた彼は航空機に対する意欲を失い1952年に失意のうちに航空工業界を引退しています。

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■極秘高度技術爆撃機計画「ブラック」プロジェクト
1978年、冷戦の最盛期であった当時、カーター大統領が「既存の防衛システムでは迎撃不能の新型爆撃機」の開発を承認しプロジェクトがスタート。作業は厳重な秘密体制の下で開始され機体形状及びスペック等は一切公表されず米空軍の大部分の幹部にも秘匿とされていました。当時B-1Bが最優先プログラムと考えられており、開発開始から8年後に概念図が公表されるまで、米空軍上層部ですら全翼機であるとは殆ど思ってもみなかったそうです。1981年10月19日アメリカ空軍の予算により研究契約が与えられノースロップ社が主契約として選定、ボーイング社とLTVを副契約社とし73億ドルの契約が交わされます。当時の予定では1990年初頭に実用化し132機の量産計画を立てていました。このプログラムでは900件におよぶ新しい製造工程のほか、条件の厳しい複合材料の選定の他秘密保全の為に製造作業に従事する全ての者に対し身元調査も実施されました。



■受け継がれる全翼機構想
米軍が現有保有する爆撃機の最高のステルス性を実現するため半世紀近く前失敗作の烙印を押された全翼機が再び注目されます。過去には不可能だった3次元コンピューターを採用した設計を行い約100,000種類以上のレーダー断面積パターンを解析した結果、全翼機が最適であると立証されたのです。フライ・バイ・ワイヤ飛行操縦技術の確立された現在、過去の問題は取り払われ、操舵システムにはYB-49で採用されていたスプリット・フラップが採用されました。



■最高のステルスへの挑戦
B-2はレーダー派を吸収するハニカム構造用に、グラファイト・エキポシ複合材を幅広い範囲で使用しています。赤外線露出を低下させる目的から、空気取り入れ口は左右上面に設置し4基のゼネラル・エレクトリック製F118-GE100ターボファンエンジンには地上から発熱減を探知させるため機体後縁から上側に設けられたV型排気口から排出する機構が採用されており、また排気口直上面には熱吸収材タイルが並べられていて、排気温度を低下させています。さらに飛行機雲の発生を抑えるコントレイル管理システムを採用することで目視での確認も難しくしています。



■世界一高額な航空機
開発当初はB-1のような低空侵攻飛行能力は重要とされておらず、最大運用高度は50,000ftとされていましたが1983年にはこうした運用構想が見直され、低高度飛行に耐えられるよう基本構造から変更されることになります。設計中盤での変更であり、使用部品の見直しと開発の遅れはそのまま機体コストに跳ね返り1機あたりの値段が上昇をまねきました。さらに当初132機の製造を予定が冷戦終結に伴う国防予算削減により取得計画が大幅に見直され、1990年4月26日には調達数75機に削減。その後さらに契約済みの21機(試作機含む)で調達を打ち切ることが決定されます。量産数を増やせば1機あたりのコストは下がりますが、他にもステルス性確保のため7年に一度コーティングを再塗装する必要があるなど維持費も高額であることが指摘された結果でした。このため1機20億ドル(1ドル100円として約2,000億円)という同重量の金と同価値と揶揄されるほど非常に高価な航空機となってしまいます。生産数が少なく米国の戦略爆撃の象徴とも言うべきB-2は1機ごとに「Spirit of ~」のパーソナルネームが与えられています。

■B-2設計チームとジャック・ノースロップ(中央)


■神が長生きさせてくれた理由
ノースロップ社のB-2設計チームは全翼機開発に貢献してくれたジャック・ノースロップに敬意を表し1980年4月軍の許可を得て同社に招待しています。その時、彼が夢見ていた航空機が時代を超えついに完成したこと告げ、提案用に造られたB-2のスケールモデルを手渡されました。彼はこの時84歳。晩年パーキンソン病に犯され余命幾ばくもないという状態でしたが「神が今まで私を生かしてくれた理由が分かった。これがそうでなくてなんだと言うのか。」と喜びをかみしめたそうです。翌年の1981年2月18日、睡眠中に息を引き取り85年の生涯を閉じました。

原型初飛行1989年7月17日
全長21.03m
全幅52.43m
全高 5.18m
乗員2名
エンジンGE F118-GE-100 ターボファンエンジン×4
最大速度M1.0(巡航M0.8)
最大離陸重量約170t
航続距離約12,000km
生産数21機


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スコット・ヒューズ

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