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大戦末期、B-29の高高度からの無差別空爆は熾烈を極め、軍事工場を始め多くの都市が壊滅的な被害を受けていました。当時アメリカの最新鋭爆撃機B-29は圧倒的な高度と頑丈な機体から「空飛ぶ要塞」と呼ばれ日本の戦闘機では満足に迎撃することもままならない状況であり、これに対抗する為日本海軍と九州飛行機が迎撃の切り札として開発していたのが、エンジンが後部にありエンテ翼を持つ十八試局地戦闘機「震電」です。エンテとはドイツ語で「鴨(かも)」のことで主翼が胴体の後部にあり機首が鳥のように長く突き出た飛行機を鴨の形に似ていることからエンテと呼ぶようになっています。
造形村コンセプトノートSWS (No.I 震電)造形村コンセプトノートSWS (No.I 震電)
造形村 スケール企画室

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■日本海軍初のエンジニア・パイロット「鶴野正敬」
今のように高度なコンピューターやシュミレーターがない時代、設計者はパイロットのいうことを聞きそれを分析することで設計にフィードバックするのが一般的でしたが、感覚がものを言う操縦の細かい意思がパイロットと技術者の間で思うように伝わらず、多く開発や改良がスムーズにいかない場面が見られました。しかし設計者がパイロットであれば問題が解決できるのではと海軍は昭和16年に飛行機の設計に順事する技術士官の一部に操縦教育を実施することになります。この制度により震電を設計者することになる「鶴野正敬」他5名のエンジニア・パイロットが誕生しました。これ以前にも一部技術仕官には操縦訓練が行なわれていましたがそれは初歩練習機の過程までで、本格的とは程遠く実戦用の戦闘機を乗りこなすことができる技術仕官は前例の無い存在でした。

■実証機「MXY6」


■エンテ型モーターグライダーで特性実験
昭和18年、海軍は時速750キロ級の試作要求を民間会社ではなく軍直属の研究開発機関「海軍航空技術廠」に提案。ここで鶴野は自分が思い描いていたエンテ型の利点を熱心に主張し、海軍上層部に訴え続けました。しかし日本では経験が無いエンテ型の操縦性と安定性について危ぶむ声も多くありましたが、戦況が日々悪化する中より高速な戦闘機を求めていた海軍としてはとりあえず実証機の結果次第で開発をするかを決め、機体が製作されることになります。「MXY6」と名づけられた機体は木工経験の深い「茅ヶ崎製作所」で3機制作され日本内燃機製「せみ」二十二馬力エンジンが装備されていました。MXY6は横須賀で実験が行うことが決定され、パイロットはもちろん鶴野自身が務めました。当初曳空試験では浮くことができず、改良をかさなることで自立飛行に成功。鶴野はこの飛行でエンテ型が操縦性や安定性に問題ないばかりか、失速特性が良好であることも確認し自分の主張に自信を持つにいたります。飛行性能も良好の成績をしめしたことから海軍本部からも支持を得ることができ、本格的に開発が決定。名称を十八試局地戦闘機「震電」に改め符号を「J7」とし、同時にエンテ型の飛行機を「前翼機」と呼ぶことも決められました。

震電

■九州飛行機に移りより急がれる開発
海軍航空技術廠はあくまで研究機関であるため、「震電」の試作機完成後、すぐ量産が図れるように九州飛行機に試作命令が発令されます。九州飛行機は主に練習機を手掛けていた会社で戦闘機などまったくの未経験ですが他の重工各社が手一杯であったこともあり割り当てられた経緯があります。昭和19年6月鶴野大尉はMXY6にたずさわった空技術廠の製図員たちと共に移り同会社の全面的な協力のもとに設計・試作に入ります。九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えており、最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産する目算を立ってていました。



■エンテ型戦闘機のメリットとデメリット
エンテ型は普通の戦闘機と比べ重心が前翼と主翼にあるため迎角の変化に対応することができ、失速しずらく回復も容易という性質があります。またエンジンが後部に移動したことで機体前方に火気が集中でき、翼に機関砲を設けている他の戦闘機と比べ命中率も期待できます。震電も当時最強力の十七試三十ミリ機関砲四門が装備していました。ただし三十ミリ機関砲は一発でも当たればB-29でも容易に撃墜が可能でしたが、弾数の合計は240発で連続発射は7秒と少なく、薬莢も機外に投棄できないため回収式という不便さがあったようです。



■エンジニア・パイロットならではの人命重視の配慮
当時の海軍は巴戦(ドッグファイト)と航続距離に重点を置く傾向にあり、そのため行き過ぎた軽量化によって防御力が米軍機に比べ極端に低く搭乗員の安全性を真剣に考えていなかった時代でした。震電はパイロット兼エンジニアである鶴野氏が手掛けたこともあり防弾や脱出にはかなり配慮されています。防弾ガラスは19キロ、防弾鉄鋼版65キロと肉厚にしパイロットを保護、燃料タンクにも12ミリの防弾ゴムでおおったうえ、消化装置も装備していました。問題となった脱出もプロペラに巻き込まれないようエンジンの軸に仕込んだ火薬で羽ごと吹き飛ばすようになっていました。



■終戦。幻と消えた震電
1944年(昭和十九年)12月7日、マグニチュード8規模の東南海地震と震災直後から断続的に行われたB-29の空爆により震電への搭載が予定されていた四二型発動機を開発していた三菱重工の名古屋工場が再起不能の壊滅的な被害を受け、震電の開発に大幅な遅延に繋がってしまいます。しかし九州飛行機社員一丸となっての開発は急ピッチで進み試作1号機は昭和20年7月末に完成。蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬し完工式を済ませた後、鶴野自身による滑走試験を実施しています。この試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまうというトラブルが起きましたが、翌月8月3日、会社のテストパイロット宮石飛行士によって初飛行に成功。試験飛行は6日と9日の二日間にわたって行なわれ上々の成果を収め17日には全力飛行テストが予定されていました。これから改良と調整を施し量産を待つばかりと思っていた矢先、8月15日の「終戦の日」を迎え実戦には間に合いませんでした。

■修復した震電前で米軍兵士と写真を撮影。左から4人目が鶴野正敬大尉
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終戦後九州飛行機の技師達は心血を注ぎ開発してきた「震電」の設計図を全て焼却し試作機も破壊しました。当時日本の情報はアメリカに筒抜けで、開発中の試作機情報も殆ど把握していましが、震電についてはまったく知らなかったらしく米軍にとっても幻の戦闘機でした。格納庫にバラバラで放置されていた震電を見た米軍は興味を持ち修復を命じます。修復した1号機はアメリカに送られ、現在もワシントンにある国立航空宇宙博物館の倉庫に保管されています。余談ですが、戦時中なぜ米軍が震電について把握できなかったのは日本軍の機密が徹底していた訳ではなく鶴野氏が航空本部や海軍に文章による報告を一度も出さなかったのが原因とされています。

■参考リンク
震電館

原型初飛行1945年8月3日
全長9.76m
全幅11.114m
全高 3.55m
乗員1名
エンジン三菱製ハ-43-42×1
最大速度750km(予測数値)
最大離陸重量5,272kg
航続距離3,791km
生産数3機(2号機完成度90%)(3号機組み立て途中)